年収ランキング1位の会社を脱サラ、ハンターに
はじめに
2017年の夏、僕は新卒で入ったGCA株式会社を辞めた。GCAは、企業のM&Aをお手伝いする会社。東京のど真ん中、丸の内にオフィスを構えていて、上場企業の年収ランキングでは1位についていた。大きな会社の経営幹部にM&Aの戦略をアドバイスして、多額のお金が動く取引の遂行をサポートする、実に大した仕事だ。一方で、はじめに強調しておきたいことだけれど、僕自身は全然大したことはない。2016年の春からたったの1年4ヶ月だけ勤めていた”ペーペー”である。「年収ランキング1位の会社を辞めて〜」と打ち出しているのは、少しでも多くの人の目を引くことが出来るかもしれないと考えたから。世の中には、本当にスゴイ仕事をしていて、それに見合ったスゴイお給料を貰っている人たちがいる。僕は、そういうスゴイ人ではなく、ただ、ちょっとだけそういう世界の入り口に足を踏み入れかけていただけの男だ。このブログは、その男が、思うところがあって踵を返し、全然違う世界の扉を開いていく物語だ。
僕は前職が好きだった
GCAでは、朝から夜遅くまで働いた。1日の大半をパソコンの前でコーヒーと共に過ごし、長時間の集中でオーバーヒートした頭を冷ましながら、深夜のタクシーに揺られて帰宅した。パソコン上のスケジュールには向こう1週間の予定が分刻みで詰め込まれていて、こなすべき仕事は次から次へと降ってきた。体力と気力はあったし、向上心もあった。程よい緊張感と目まぐるしいスピードに身をゆだねて、仕事をひたすら片付けてゆくマシーンと化した日々には、心地の良い疲労感と適度な満足感があった。
きっかけの一冊
けれども、自分が日々やっている仕事の価値(”価値”というと随分たいそうな話に聞こえるが、とどのつまり「これって本当に自分がやりたことか」ということ。)については、ゆっくり腰を据えて考えることが少なかった。平日は忙しくてそんな余裕が無かったし、休みの前日には気の合う仲間と心ゆくまで酒を飲んでから眠りについていたので、休日はぼんやりして過ごすことが多かった。酔って、醒めて、また酔って、また醒めて。そんなことを繰り返しながら、平日と休日はこれといった大義もないままに平行線をたどった。いつか「本当に求めていた暮らしはこれじゃなかった」と後悔する可能性を少しだけ認識しつつも、金曜日の夜になれば、とりあえずビールで乾杯した。そんな中、あてもなく入った浅草の書店で、服部文祥さんの「サバイバル登山入門」を手に取ったのも、いつもの二日酔いの休日のことだった。
最高の自由はどこにあるのか
「サバイバル登山入門」は、最小限の装備で山に入り、食料や燃料を自分で調達しながら生きてゆくための術を解説した本だった。分厚いオールカラー1冊のほぼ全てはハウツーの内容であり、ヘビとかイモ虫の食べ方なんかも紹介されていて、「すごいことする人もいたもんだなぁ」くらいに眺めて楽しんだのだが、「最高の自由はどこにあるのか」と題された前書き、19ページ分の文章を読んだとき、僕は目を覚まされる思いがした。世には、金や広告のために肩書きだけで書かれたゴミのような文章が氾濫しているが、「これは本物だ」と思った。そこには、本当に自分の頭を使って考えたことを、自分の身体を使って本当に実践している人の言葉だけが持つ、純粋な迫力があった。僕は、自分にはそういった”本物の言葉”が無いと恥じた。惰性の日々を省み、改めて自分の仕事の価値について問い、起こすべき行動について検討した。そこから会社を辞めるまで、そう時間はかからなかった。
自分で決めた価値
高度に分業化された大きなビジネスにおいて、仕事の価値を測るモノサシの多くは、誰か他の人が決めたものになっている。「やってください」と言われたからやるし、「正しい」とされているから正しい。だからこそ大きなビジネスが成り立つわけであって、そういう仕組みを否定することは間違っている。だけれども、そういう環境に長いあいだ身を置いていると、自分だけの価値基準というものが曖昧になってしまうと感じた。もっとも、そういったことをよく考えずに生きてきた自分が良くなかった。今さら何を、と言えば全くその通りなのだが、「本当に価値がある」と心から思えることを求めて、ちょっと冒険がしたくなった。僕の頭と身体は、誰かが決めた「価値あること」を追いかけるためではなく、自分にとっての「価値あること」を見つけ出すためにある。その作業をしないことには、誰かに語れるような自分の言葉など、何もないのだということに気がついた。
ハンターという仕事
ハンター、猟師という職業世界には、自分が求めているものが待っているのではないかと考えた。生き物の命を自らの手で終わらせ、それを食べ物に変えてゆく仕事。そこには大昔から変わることのないプリミティブな価値が確かにある。物語がある。AIの台頭により、僕がパソコン相手にやっていた仕事の価値が失われる日はいつか来る。そして、そのイノベーションはある意味で歓迎すべきことだと思う。だけれど、命を頂く仕事をAIに譲り渡したら、また、もっと極端な話、バイオ工学の発達によって食べ物を人工的に創り出すことが可能になったら、それは簡単に受け入れられる話ではないように思う。生きてゆくためには他の生き物を殺さなければならないという、地球生命の大原則から人間だけが解放された時、それは解放と同時に、生命体としてのプライドの放棄である。
命のプライド
ワイルドであることが、命のプライドだ。殺し、生かされ、いずれ死に、腐って臭って土に還る。そのサークル・オブ・ライフの流れ全体が、母なる自然が、単なる有機体を尊ぶべき命たらしめる。そこにプライドある限り、命としてどこまでも自由だ。僕は、そのことを忘れないために、もう一度確かめるために、そしてそれを自分の言葉で誰かに語ることのできる男になるために、ハンターになることを決めた。
さいごに
話がこれくらいのスケールになってくると、いっそ年収ランキングなどどうでも良いような気もしてくる。いや、どうでも良いとは言いすぎたかもしれないが、どうでも良いとでも言い切らないと収まりもつかない。ちょっと思い切ってしまった部分はある気もするが、思い切った以上は思い切るしかない。後悔はないのかと問われれば、今のところ「ないようにしたい」と答える他ない。しかしながら、自分がright trackに乗っているという予感は、確かにある。
会社を辞める時、退職願を書いた。書いたと言っても、総務の担当者に渡されたフォームにはすでに退職願の内容があらかじめ印刷されており、僕は日付と自分の名前を記入するだけでよかった。「一身上の都合により」という文言に、僕は「まさに」と思った。これからどんな事が起こるのか。起こすのか。まさに一身上の僕の冒険記「WILD AND LIBERTY」を、ここに記してゆく。