初めて鹿を撃った日

現代の日本において、狩猟という行為は、ある一定数の人間にとっては非常に魅力的に感じられると思う。世の中はどんどん便利になり、そのシステムの中で、「普段の暮らし」は、本来的な意味での「人が生きてゆくための行為」と随分遠く離れてしまったところにある。分断されている、と言ってもよい。

そんな社会の中でも、「スーパーマーケットに並ぶ肉も、元々は生きている動物だったのだ」という事実は皆が認めているし、その事実を改めて確認すること、あるいはそういった教育は「良し」とされていると思うし、「私もそれを実際に見てみたい。狩猟をやってみたい。」と思い至る人がいても、それほどオカシなことではないと思う。

しかし、結果的に「その瞬間」までたどり着ける人となると、実際のところ、ほとんどいない。一人で山に入り、歩き、探し、完全なる野生の状態で生きている鹿を見つけ、銃口を向けて狙いを定め、最後の一瞬、息を止めて引き金に指をかけ、撃ち殺すという行為。

僕は、思えば、ここにたどり着くために結構頑張った。狩猟に興味を持ってからすぐに免許取得にとりかかり、サラリーマンを辞め、東京から山奥へと移住して、猟を始めた。罠猟のほうでは割とすぐに獲れたけど、銃を使って獲物を仕留めるのには苦労した。それでも、まだまだ「まぐれ」で獲れただけだと思うし、事実そうなのだと思う。銃で1頭仕留めたくらいでは、ハンターとして別にすごくも何ともない。

でも、我ながら、「俺すげぇなぁ・・・」と思ってしまわずにはいられなかった。銃の技術がどうこうとか、人と比べて云々とか、そういうことではなく、単純に、自分という人間の成長を思って、すごいと思った。でも、自分を褒めたたえてご満悦、という感じでもなくて、どこか冷めているというか、変に客観的な感触もあった。

僕も最初は赤ちゃんだった。もちろん記憶すらないけど、親をはじめ、周りの人間の手助けがなければわずか数日だって生きていられないほど弱い生命として地球に生まれてきた。それでも長い時間をかけて、他の動物たちに比べれば信じがたいほどスローなペースで成長して、大人になった。

・・・なった?

たしかにいろいろあった。友達ができて喜んだり、恋人ができて喜んだり、友達に恋人ができて喜んだりした。家で、学校で、外で、たくさんのことを新しく知った。それを自分で選りすぐっては、進むべき道を夢見たり、がっかりしたりした。社会に出て仕事をして、何かを人に求めたり、求められたりした。

だけど、いつまでたっても「大人になった」と感じることはなかった。「この歳って、もっと大人だと思ってた」と、何歳になっても感じ続けていた。ひょっとしたら永遠にこんな感じで歳を重ね続けていくのではないかという気配もあったし、いやいや、そんなことはないだろう、いつか「その時」がくるさ、と、何かを期待して待ち続けているような僕もいた。

僕は、初めて鹿を撃ち抜いた瞬間に、「その時」、もしくはそれに近いものを感じた。でもそれは、ぴったり期待通りのものではなかった。今まで27年間生きてきて、いくつもの選択を経験してきたけれど、「目の前にいる野生の鹿に向けて引き金を引く」という選択は、その種類というか、次元が全く違っていた。今まで僕が経験したことのないほど「大人の選択」だった。

倒れた鹿は即死していた。ほんの数十秒前、銃のスコープ越しに見た鹿は、何も考えずボーっとしているような様子で斜面に立っていた。木立の影に身をひそめる僕の存在に気づくこともなく、陽が落ち始めた杉林を眺めて何を考えていたのだろう。

僕は取り返しのつかないことをした。取り返しのつかない判断を下した。これが良いのか悪いのか。でも、ともかく獲ったのだ。それはよくやった。都会に暮らしていて、猟をしようと思い立って、本当にここまで来れる奴は、そういないぞ。でも、本当に来ちまったんだな。なんか、大丈夫か?

この感想をどう処理して良いものやら、ちょっと持て余すが、なんかこの、複雑な感じは「ひとつ大人になった」という表現がカバーする範囲の心境のような気もするし、そういう単純なものではない気も強烈にするし、いや、わからない。

「俺すげぇなぁ・・・」

今までの、全てのことを、ずっと考えながら、鹿の肉を担いで山をおりた。