初めての狩猟 – 人間の最も根本的な部分の真実

初めての獲物

その日は、一生忘れられない日となった。

僕の初めての狩猟、人生最初の獲物は、罠にかかった。「くくり罠」というタイプの罠がある。地面に隠した罠を獣が踏むと、バネが開く力が解放されて作動し、金属製のワイヤーで獣の足首を「くくって」捉えるという、非常にシンプルで原始的な仕掛けである。獣に踏ませる部分の面積は「短径で12cmまで」と法に定めがあるため、広大な山林で「ほんの手のひらほどの」仕掛けを踏ませる必要がある。まさに獣との知恵比べだ。

その知恵比べの試行錯誤と、罠の仕組みの詳細などはまた追って別の記事に書くとしよう。とにかく、僕が仕掛けたくくり罠に、その日、一頭のオス鹿がかかったのだ。罠の位置が少しでも違っていたらかかっていなかったかもしれないし、鹿が少しでも気まぐれを起こして違う行動をしていたら、あるいは別の結果になっていたかもしれない。だが、この何でもないようなことの積み重ねの上には、命がかかっていた。不思議なものだ。

銃でトドメを刺す。首を狙撃することで、苦しませる時間をできるだけ与えずに一瞬で絶命させることができるはずだ。もっとも、銃で撃たれて死んだことはないので実際のところは分からない。

対峙している感覚

銃口を鹿に向けて、引き金に指をかけると、「対峙している感覚」が強烈にこみ上げてきた。人間の社会とか、野生の動物とかいう枠組みは、その瞬間に全て消えてなくなり、ただ、見つめる先の鹿と僕とが、正真正銘の意味において対峙していた。本当の本当に、ひたすら正真正銘と感じられる瞬間がそこにあった。

倒れた鹿に駆け寄ると、すでに意識を失っていた。ナイフを取り出し、頚動脈を切った。

本来はここでドバっと血が出てくるはずなのだが、出てこない。撃たれたショックで心臓が止まってしまったのだろうか。血抜きをしっかりと行わないと肉の味が悪くなってしまうので、血が出ないというのは・・・と一瞬困った。しかし、「味が悪くなる」「困った」と言ったところで、目の前に横たわる限りないリアルを前に、それは所詮人間の都合なのだ。下らない焦りだと恥じた。

鹿の足首にワイヤーを巻き、そこからカラビナを介したスリングを肩にかけて、水の流れがある沢まで引きずった。結構でかい鹿で、肩に食い込む重みが、「ついに獲ったぞ」という実感となって湧いた。やっとハンターになったぞと、一つ夢が叶ったような気分だった。

お腹から切り開いて、内臓を摘出する。写真、左手で掴んでいる白い管は気管。体腔内にたくさん血が溜まっていたので、結果的に血は抜けていたようだ。

心臓。解体は事前に猟の師匠に教わり、何度か経験していたが、自分で仕留めた獲物の心臓は、やはり、ひときわだ。持ち帰って食べる。

頭部。叉が二つ。動物の角のジオメトリーには、一つ絶対的な答えとしてそこに完結したような美しさがある。

マジで、マザーネイチャーだ

ちょうど後輩が東京から遊びに来てくれていて、この日の午後に電車で帰ることになっていた。狩猟に興味があると言うので、連日一緒に山に入っていたのだが、ずっと獲れずで、このまま終わりかな・・・と思っていたところで、良いところを見てもらえた。一通りの解体を済ませ、肉を冷蔵庫にしまってから、後輩を駅まで送った。彼は「これ、忘れられないっすね。」と言った。

後輩を見送ったあと、夕日を眺めてゆっくりドライブした。少し暖かくなってきた春の風が窓から入ってきて、とても良い気分だった。鹿の柔らかな体温をそこに重ね合わせて思い、「マジで、マザーネイチャーだ」と思った。涙が出そうになった。

後輩は、純粋なクエスチョンとして「可哀想とかって、思うんですか」と言っていた。自分の中でも、初めて獲物を仕留めたあとの感情を、以前から何度も想像していた。罪悪感が残るのだろうか。素直に有難いと感謝するのだろうか。どうなんだろう、と。

背ロース肉の刺身。心から美味いと思える味で、噛みしめるたびに元気が湧いてきた。生きている実感があった。お祝いに、少し良い赤ワインを。

人間の最も根本的な部分の真実

東京にいた頃、ときどき仲間とキャンプに出かけた。日が傾いてくると火をおこし、それを眺めた。その度に、「ああ、そうだった」と、大事なことを思い出すような感覚になった。僕たちは、大昔からこうやって地球で生きてきたんだよな、そうそう、そうだったんだ、と。「火を見るより明らか」という言葉があるが、それは火を見るという行為が万人にとって揺るぎなく確かな行為であるという前提にもとづいている。それくらい、明確なこと。現代に生きる僕らにとっても、それはずっと変わっていないのだ。遺伝子に刻み込まれた太古の本能は、確かに僕の命まで受け継がれてきていた。

可哀想とか、罪悪感とか、そういう感情を超越していた。人間の最も根本的な部分の真実だった。大げさに言うようだが、ずっと昔からそこにあった当然の営みにすぎなかった。「ああ、そうだった」と、26年間も生きてきて、初めて自分の中のプリミティブな部分に到達した。自分で実際にやってみることで、初めてドアが開いた。狩猟をやって本当に良かったと思った。